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未来への不安のなかで
この世界は、いま、どこへ行こうとしているか。
わたしたちは、どのように生きればよいのか。
旧い世代は、目標や生きる価値の喪失に立ちすくんでしまっており、老後の不安をかかえこんでいる。若い世代は、あふれかえるようなモノの豊かさにもかかわらず、未来への扉が閉じられたままの「生」のなかで、自分たちの生きることの意味を見いだせぬまま、「生きていることのリアリティ」を発見しえないでいる。
このようにわたしたちは今、途方もない崩壊と閉塞感、未来への底深い不安感を抱きながら、大動乱の時代の戸口にバラバラに立ちすくんでいる。
1991年のソ連邦崩壊に象徴された「20世紀社会主義」の崩壊と挫折、そして2001年に起きた「九・一一事件」、その後のアメリカ帝国によるアフガン・イラクへ残虐・野蛮な戦争テロルと、朝鮮半島への戦争挑発の拡大・・・・。
「戦争と革命の二十世紀」は、この二つの出来事に象徴された世界史的切断線をもって、過去となった。わたしたちの生きている今日の世界は、「地球と人類の共倒れ、滅亡の危機」をはらんだ大動乱の世界の「パンドラの箱」を開けてしまい、アメリカン・スタンダードの資本のグローバリゼイションの下で、地球大に大きく、深く壊れながら暴走しつつある。
人類史のなかのわたしたち
2003年の夏、わたしたちは青白く輝く月の側に、小さいがたしかな光を放つ火星をみた。六万年前の光がわたしたちを照らす。その小さな輝きを不思議な思いでみながら、悠久の人類史のなかのわたしたちのことを考える。
宇宙は150億年前のビッグバンで誕生し、地球を含む太陽系は46億年前に姿をあらわし、地球に生命が誕生したのは、40億年前である。その生命が数百万種におよぶ多種多様な生命体にわかれ、人類は400万年ほど前に、この地球に生まれたとされる。
この生命誕生以来の40億年の歴史のなかで、「農耕・牧畜スタイル」採用後の人類文明史において、現在起こっていることは一体どういうことだろうか。
それは、近代とよばれる産業革命以来の資本主義と西欧文明の歴史サイクルが終わり、ウエストファリア条約体制以来の産軍複合体を原型とする近代国民国家とその国際システムの崩壊過程の始まりである。
「短い20世紀」を振り返れば、資本主義の近代西欧文明中心の近代世界が、「自己破産」の兆しをみせた最初のあらわれは、20世紀初頭の第一次世界大戦である。この帝国主義世界戦争を契機に、一方で、その後の二十世紀諸革命のはじまりを告げた世界史上初のロシア10月社会主義が登場し、他方で、近代西欧文明の「破産管財人」としてのアメリカ帝国が登場し、「戦争と革命の20世紀」の力動的世界の動源となった。
以来、「世界戦争」「ソビエト・レーテなどの評議会革命」「スターリニズムとファシズム」の時代、「植民地体制の全世界的崩壊」「米ソの世界的規模における体制間対立なる冷戦」の時代、アウシュヴィツ以後、ヒロシマ以後のドル・核による「世界大不況・世界恐慌の接近」「アメリカの単独行動主義による戦争テロル(二一世紀型戦争)」の始まりを告げた今日の時代へといたっている。
こうして現在、一方の資本主義の「破産管財人」たるアメリカ帝国は歴史的没落過程に入り、まさにそうであるがゆえにアングロ・アメリカン・スタンダードの資本のグローバリゼイションは、「弱肉強食」の残虐な野蛮となって全世界と全人類を地獄の淵への道ずれにしようとしている。他方資本主義に対する対抗価値であった「二十世紀社会主義」は、1991年のソ連邦崩壊でその歴史を終えた。以来、これを乗り越えて「アメリカニズムの野蛮」に代わる未来への希望の原理となる新たなオルタナチィブはいまだ立ちえないでいる。
ここにこそ、今日の「イスラーム原理主義」と「アメリカニズム」との一見「文明の衝突」的様相をもってする世界的危機の発現の現代史的根拠があるといわねばならない。
と同時に、こうした「イスラームの台頭・挑戦」が意味することは、人類文明史からみれば、近代西欧文明が決して「世界の中心・普遍」ではなく、一つの「辺境の文明」に過ぎないということの開示でもある。19世紀に確立して以来、世界の地表を覆ってきた「コンクリート詰め」の資本の「文明的野蛮」の裂け目から、人類文明の基層部が現れでてきたといえる。
それはそれで、近代ブルジョア文明に特有なこれまでの欧米中心主義の人間観・世界観を克服し、他者の存在・その多様な価値を認め、全世界の多民族・多文化が平和に生きる「もう一つの世界」のあり方を、わたしたちに鋭く問うものである。
生きるということ
「めしは天である」。にもかかわらず、地球にすむ数十億の住民のうち、その五分の四の民衆が飢餓と貧困にあえいでいる。また、ひとびとの日々のくらしの中にひそむこんにちの危機は、この飢餓とともに、食べ物、水、空気ひとつをとっても地球と人類の生存そのものの危機であり、それはもはや臨界閾をこえつつある。
このように人が生きるということは、日々の生活、暮らしの細部に宿っている。
その細部に凝縮して、人類文明史の危機があらわれでてくる。何ともあらわしようのない閉塞と崩壊感、不安感をともなって。
このような危機は、人類文明の根本的転換の必要をぬきさしならず迫っている。
それは資本主義の西欧近代文明の破産と崩壊に代わり、「生・生命・生活」を大切にする新たな地球・人間的文明への移行の必要が、現実的課題となっていることを意味するのではないだろうか。
このことが投げかけている問題の歴史的深さや地球的大きさが、解体的危機のドン底にある革命主体や、諸大衆運動のすべてを貫き、覆いかぶさっての重圧となって、その困難さの根拠となってきたのではないだろうか。
20世紀のマルクス主義に立つ先人たちによって立てられた「文明か野蛮か」の選択肢は、今日の大転換期にあっては、「もう一つの世界か、地球と人類の死滅か」の戦慄すべき選択肢として立てられざるをえない。
「未来」という名の希望を
過去を変えることはできないが、未来を変えることはできる。
危機のどん底にこそ新生事物は生まれる。「動乱と破滅」の混沌の中に、希望は育まれる。
現に世界と日本を見渡せば、矛盾の集中点において、民衆は闘っており、「新しいスタイル」「新しい課題」で社会運動は起こっており、21世紀の未来の萌芽はそこ、ここに、宿りはじめている。チアバスのサンディ二スタ原住民蜂起、シアトル以来の反グローバリズムと反戦の人類史上初めての千万単位の世界的「マルチチュード」の大波、シオニスト・イスラエルに対するパレスチナ人のインティファーダの闘い。「新しい形の革命運動の時代」がはじまっている。わたしたちが依拠し連帯すべき普遍的な倫理基準は、すでにこれら闘いが、みずから開示しはじめている。
こう確信するわたしたちは、その一員であることを誇りともし、資本主義とその文明を乗り越えて行くべく挑戦する。
もしも現在の破局的激動の過程で、このまま漠とした閉塞感だけが社会を覆い、民衆が頼むに足る、言うに足る革命的主体の準備がなされないならば、人々はちょっとした「癒し」や「慰安」を求めてさまよい続け、時代変革の大衆的絶望は底知れぬ巨大なものとなり、ナショナリズム・民族排外主義の台頭とその扇動にあおられ、政治的にはどこへ向かうか測り知れない。このことはすでに現われはじめており、誰もが感じはじめているところである。
「いま、ここ」で、自らの非力を省みずに、「もう一つの世界」「もう一つの日本」をめざして、全力をあげてここに新しい理念(原理)、あるべき社会・文明像へのヴィジョン獲得のため、わたしたちの認識・提案と構想を提言し、日々の生活・労働世界から新たな主体創生にとりかかる所以である。
ともに、未来の扉を開くために。
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